イイ!感想

作品を深く理解する上で参考になる書評・感想をまとめています

『ねじまき鳥クロニクル』(村上春樹)に対する、村上氏本人のコメントまとめ

f:id:yasomi:20180812121853j:plain

 

日本を代表する作家・村上春樹(1949年生)による8本目の長編小説。初出は『新潮』1992年10月号。執筆開始から4年半をかけて完結し、3部構成で1000ページを超える大作です。

 

第1部の冒頭部分は初期の短編作品集『パン屋再襲撃』に掲載された「ねじまき鳥と火曜日の女たち」を下敷きにしたもので、かなり初期の頃から「ねじまき鳥」のモチーフが村上春樹のなかにあったことがうかがえます。

 

国内では、1996年2月に第47回読売文学賞を受賞。海外での翻訳版も広く読まれており、ウィキペディアによれば英語、フランス語、中国語を含む20カ国語以上に翻訳されています。

 

書評や感想に先立って、まずは村上氏自身による本作品へのコメントをまとめています。

 

 

 

村上春樹自身が語る『ねじまき鳥クロニクル』

『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』での言及

言語かイメージか

故・河合隼雄氏は日本のユング心理学の第一人者で心理療法家として活躍した人物。ふたりの対談は1995年11月に行われたもので、この時期の村上春樹の仕事が、95年の阪神大震災とオウム真理教による一連の事件に衝撃を受けて成されたものであることはよく知られています。

本書はそれらの事件と、日本人にとっての戦争の傷、ということを村上氏が真剣に考え続けていることが分かる一冊です。

 

PTSDの治療方法として「箱庭療法」を実践してきた河合氏は、心の深い傷の解決のために分析して言語化しようとするアメリカ人の発想に対して、それだと下手すれば傷を深めてしまうことがあるから、「完全に分析しようとすることと、言語化しなくても治るということと、その中間的なところに箱庭がある」とその意義を説明します。

そのうえで、『ねじまき鳥クロニクル』は自分のやっている仕事に非常に近い印象を持っている、という話から始まる対談です。

 

村上:絶対に出さない人というのはいませんか。つまり問題があるにもかかわらず、隠して出さないという人は。

 

河合:分かっていて隠して出さない人は大した人です。だからぼくらは、言いたくないことは言わなくていいですよって、すごく強調します。なかには言いたくないことを三年ほども言わないでがんばり抜いて、それで治っていく人もいますよ。

 

日本的「個」と歴史という縦糸

村上:ぼくが思ったのは、日本における個人を追求していくと、歴史に行くしかないんじゃないかという気がするのです、うまく言えないんだけど。

 

(中略)

 

河合:その歴史も、西洋人の場合は何年何月に何があったというふうに直線上に並べていくのだけれど、日本人が感じる歴史は、漠然としたかたまりのようにして受けとめられているのではないでしょうか。たとえば、「先祖代々の墓」という捉え方で満足してしまって、一人ひとりの名前を順序をはっきりと知ろうとしない。

 

ところが、村上さんがわざわざ「歴史という縦の糸」と言われたところが鍵になるみたいで、あえてそのようなものを持ちこんでくることで、日本人の「個」というのが、新たな角度から見られることになるかもしれないと思います。

 

村上:ぼくの考えは、小説にとってバランスというものは非常に大事である。でも、統合性は必要ないし、整合性、順序も主要ではないということです。

 

河合:『ねじまき鳥クロニクル』もそのように出来ていますね。あれにあえて“クロニクル”という名前がつけてあるからよけいおもしろいんですよ。ふつう“クロニクル”といったら、やはりちゃんと時代の順番に書かれることになっているでしょう。ところが、『ねじまき鳥クロニクル』はそうなっていない。

 

本書では湾岸戦争に対して日本が取った行動についての矛盾についても言及されていますが、河合氏は「矛盾を許容してやっていくのがいい」と主張しつつも、同時に、「それによって「解決」されたと考えてはならない」という態度の重要性を強調しています。この信念は、村上春樹作品にも通底する重要な倫理観のように思われます。

 

河合:つまり、矛盾をずっとかかえこみながら、答えを焦らずに実際的解決策を見出してはいくが、その矛盾にはずっとこだわっていく。矛盾の存在やその在り方、解消の方法などについて考え、言語化していく。しかし、決して解決を焦らない。

 

そうしているうちに、最初は矛盾としてとらえていた現象が、異なるパースペクティブや、異なる次元のなかで矛盾を持たない姿に変貌する。それを待とうとするのです。

 

コミットメントについて

ある時期までの村上春樹は、「デタッチメント」(=無関心、無関係性)ということにこだわっていたことは有名です。社会から一定の距離を取り、それこそを個人の誠実さと見る態度。そこから一転して「コミットメント」へと態度を改めるのですが、その背景についての語りも興味深いです。

 

村上:『ねじまき鳥クロニクル』はぼくにとっては第三ステップなのです。まず、アフォリズム、デタッチメントがあって、次に物語を語るという段階があって、やがて、それでも何か足りないというのが自分で分かってきたんです。

 

(中略)

 

コミットメントというのは何かというと、(……)「あなたの言っていることはわかるわかる、じゃ、手をつなごう」というのではなくて、「井戸」を掘って掘って掘っていくと、そこでまったくつながるはずのない壁を越えてつながる、というコミットメントのありように、ぼくは非常に惹かれたのだと思うのです。

 

村上:これまでのぼくの小説は、何かを求めるけれども、最後に求めるものが消えてしまうという一種の聖杯伝説という形をとることが多かったのです。ところが、『ねじまき鳥クロニクル』では「取り戻す」ということが、すごく大事なことになっていくのですね。これはぼく自身にとって変化だと思うんです。

 

「何かを求めるけれども、最後に求めるものが消えてしまう」、それゆえの諦念が常に主人公の背後を漂っていた初期作品群ですが、個人的には、一つ前の作品である『国境の南、太陽の西』のラストシーンの段階ですでに、ある種の自閉的態度を破って他者(妻)と繋がろうという試みがなされていた、と考えています。

『ねじまき鳥クロニクル』は、そこからさらに一歩踏み込もうとした作品ではないでしょうか。

 

河合:昔の夫婦というのは、ただいろいろのことを協力してやって、それが終わって死んでいって、それはそれでめでたしだったんですね。いまは協力だけではなくて、理解したいということになってきている。理解しようと思ったら、井戸掘りするしかしょうがないですね。(……)そういう意味で、ほんとうにこんどの『ねじまき鳥クロニクル』は、やはりものすごいコミットメントの話ですよね。

 

村上:そうですね、それがぼくにとって非常に大きい問題だったんです。で、主人公はいろいろな登場人物にコミットメントを迫られるのです。(……)ただ奥さんのクミコさんだけが逃げていく。去っていく。でも、彼がほんとうにコミットしたいのは彼女なのです。

 

暴力性と表現

村上春樹といえば死とセックスばかり描く作家というイメージも強いですが、実はごく初期の頃はむしろ反対に、それらのモチーフを自らに禁じていたという話も。

 

村上:ぼくは、『風の歌を聴け』という最初の小説を書いていたときは、死とセックスに関しては書くまいというひとつのテーゼみたいなものを立てたのです。その背景には、近代の文学がセックスと死というものに対して、論理的に関わってきたということがあるのです。

 

(中略)

 

結局、でも、行き着く先はそれしかなかったというか、『ノルウェイの森』を十年後に書いたのですが、あの小説の中ではセックスと死のことしか書いていないのです。もちろん大江(健三郎)さんとは書き方はまた違うのですが、それでもまだ暴力は出てこなかったのです。

それから五年か六年たって、やっと暴力というものを書くようになったのです。

 

河合:ぼくは、読者が同一化してシンパシーを感じている主人公こそが、暴力に深く関わることに意味があると思うのですよ。

 

(中略)

 

村上:『ねじまき鳥クロニクル』の中においては、クミコという存在を取り戻すことがひとつのモチーフになっているのですね。彼女は闇の世界の中に引きずり込まれているのです。彼女を闇の世界から取り戻すためには暴力を揮わざるをえない。そうしないことには、闇の世界から取り戻すということについての、カタルシス、説得力がないのです。

 

作品と作者の関わり

村上:ただ、ぼくが『ねじまき鳥クロニクル』に関して感ずるのは、何がどういう意味をもっているのかということが、自分でもまったくわからないということなのです。これまで書いてきたどの小説にもまして、わからない。

 

(中略)

 

いちばん困るのは、ぼくが一人の読者としてテキストを読んで意見を発表すると、それが作者の意見としてとらえられることなんですね。

 

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』での言及

「アウトサイダー」より

村上:いわゆる「ノモンハン事件」について、日本の人々はその当時多くを知らされませんでした。そしてその結果、今でも多くの人はそれについての知識をほとんど持っていません。それがどれくらい意味のない、残酷で血なまぐさい戦闘だったかを知って、僕はずいぶん驚きました。

僕はこの小説を書き終えたあとで、実際に満州地方とモンゴルに行きました。ちょっと変なものですよね。普通の人は本を書く前に、リサーチのために現地に行く。でも僕は逆のことをやったわけです。想像力というのは、僕にとってもっとも重要な資質です。実際にそこに行くことで、想像力をスポイルしたくなかった。

 

村上:僕はweird story(奇妙な物語)を好んで書きます。どうしてかはわからないけれど、そういうweirdnessにとても惹かれるんです。僕個人について言えば、僕はきわめてリアリスティックな人間です。ニューエイジみたいなものにはまったく関心がないし、輪廻にも予知夢にも占いにも星座表にも関心はありません。信じる信じない以前に、関心が持てない。

(中略)

(でも、)真剣にものを書こうとすればするほど、僕の書く物語は現実離れしたものになっていく。この世界や、この社会のリアリティーを描こうとすればするほど、それは非リアリスティックな物語になっていく。どうしてかと尋ねられても、僕には答えの持ち合わせはありません。

  

 

 

感想もまとめる予定ですが、思いの外長くなったので一旦ここまでで公開。後日追記します。

  

 『ねじまき鳥クロニクル』のまとめ

 

村上春樹の小説、特にこの頃の作品では、繰り返し同じモチーフが登場しながらも、一歩ずつ前進を試みている。そんな印象があります。近年の作品を深く味わうためにも、『ねじまき鳥クロニクル』とその読解編ともいえる対談本やインタビュー集は必読といえそうです。